当クラブについて

クラブ概要

コース名 唐津ゴルフ倶楽部
ホール数 18ホール
コース総延長 6,710yd
敷地面積

大平山コース 580,700m2
馬場野コース 317,326m2
合計        898,026m2

所在地 〒847-0882
佐賀県唐津市菅牟田64番地1  
電話 0955-73-2933
FAX 0955-72-0808
E-Mail info@karatsu-golf.jp
略歴  
S12.07.11 馬場野9ホールコース開場
S19.11.01 営業事実上休止(来場者0)
S21.07.16 米軍接収
S24.07.01

米軍接収解除
営業再開  

S25.07.01 福岡国際CC(現古賀GC)と合併、九州カンツリー倶楽部唐津コースと改称
S28.03.01 九州カンツリー倶楽部解散、唐津ゴルフ倶楽部独立
S63.09.01 18ホールコースへ向け新倶楽部スタート
H03.05.15 大平山9ホール増設18ホールグランドオープン
大会開催経過  
S57.11.17 第一回唐津オープンプロアマトーナメント開催
H05.10.21 九州インタークラブ選手権競技開催
H06.05.31 九州アマチュア選手権競技決勝大会開催(5/31〜6/2)
H06.08.20 第1回佐賀県アマチュアゴルフ選手権大会(8/20〜21)
H10.09.04 九州オープンゴルフ選手権競技(9/4〜7)
H10.10.14 全国都道府県対抗アマチュアゴルフ選手権大会(10/14〜15日)

 

 

クラブの歴史

歴史
歩み

第二次世界大戦後にはその運営が金子道雄氏にゆだねられ、今日に至るまでの紆余曲折を経てきた68年の歴史をダイジェストにまとめました。
美しく整備された18ホールのゴルフ場や優美なクラブハウスとともに、その歴史をご紹介しましょう。

歴史

ゴルフが日本に伝わったのは明治後期の頃です。貿易に訪れる外国人から伝えられた外国文明のひとつであったので、外国船が入港する神戸、横浜、長崎などにまずゴルフは定着していきました。明治34年に日本最初のゴルフコース4ホールが神戸の六甲に誕生し、明治39年横浜の根岸競馬場内に6ホール、大正2年長崎雲仙に9ホールのコースがオープンします。神戸・横浜は在日英国人が主体となって設立、長崎は外国人観光客を対象に長崎県がパブリックコースとして開場したもので、日本人を対象に日本人が初めて組織したのは東京ゴルフ倶楽部の駒沢コースで、大正3年のことでした。九州では大正15年に、雲仙に次いで福岡ゴルフ倶楽部大保コースが開場しています。

この大保コースで出会ったのが、その頃、ゴルフにおいて佐賀の三傑と呼ばれていた、小城の今泉政喜、第百六銀行の専務取締役であった小野好郎、そして杵島炭坑のオーナー高取九郎。やがてこの3人が唐津ゴルフ場造成の中心となり、昭和12年、唐津市馬場野(ばんばの)に唐津ゴルフ倶楽部を開場し、唐津市の初代市長・河村嘉一郎の政策の1つであった「唐津市の国際観光都市構想」実現の一翼を担うこととなるのです。また、この国際観光都市構想の一環として、シーサイドホテル(旧)が昭和9年に誕生したのは、みなさまもよくご存知の通りです。

黄金の日々の唐津ゴルフ場で。
左より矢野正雄氏(杵島炭坑大阪支店長)、高取九郎氏(創設者)
今泉政喜氏(常務理事)、小野好郎氏(常務理事)。


ゴルフの普及・大衆化を目指して揚々とスタートした唐津ゴルフ倶楽部であったが、くしくもオープンの4日前に日中戦争が勃発。だが、戦争の影が押し寄せることなど思いもせず、昭和15年頃まではプロやアマチュアなどのゴルファーがグリーンの上で楽しくプレーする姿が見られ、東久邇宮殿下御下賜杯競技が開催されるなど黄金の日々が続いたのです。

とはいえ、ゴルフ場の経営は赤字続きだったようです。高取家からの寄贈という形で誕生した唐津ゴルフ倶楽部でしたが、会員数は最高のときでも45名ほど。結局は高取九郎が個人オーナーとして経費の一切を負担していたのです。それは第二次世界大戦が終わり、高取家経営のゴルフ場が終息を迎えるまで続きました。

全国のゴルフ場が軍用地や農地に転用されて姿を消していく中、岸川善太郎市長の尽力と高取九郎による行き届いた整備により、昭和21年の進駐軍接収までゴルフコースとしての美しい姿をとどめたまま守られ続けたのです。

馬場野コースの7番ホールより眺める素晴らしい眺望(昭和12年頃)。唐津湾に浮かぶ高島(左前方)や遠く山々を臨む開放的な景観は、唐津ゴルフ倶楽部の大きな魅力である。

昭和21年7月より、ゴルフ場は進駐軍によって接収され、管理されることとなり、昭和24年6月の接収解除までの3年間、唐津シーサイドホテルとともに、米軍兵士やその家族たちのレジャー施設として利用されていました。

昭和24年7月に接収が解除されますが、終戦直後の混乱の中、高取家は当時の社会事情をはばかってゴルフ場支援を断念してしまいます。存続の危機に立った唐津ゴルフ倶楽部を守るために、白羽の矢が立てられたのが昭和自動車(株)社長・金子道雄でした。

当時、唐津観光協会会長であり、佐賀県議でもあった金子は、高取九郎や清水荘次郎市長らの強い勧めと郷土愛から引き受けることを決意。しかし、この時期が唐津ゴルフ倶楽部68年の歴史の中で、最も不安定な時期でありました。皆が食べることに精いっぱいの時代で、ゴルフを楽しむ余裕などあるはずもなく、会員は10名にも満たず、赤字経営を余儀なくされました。増員を図るために福岡国際カンツリー倶楽部(現在の古賀ゴルフクラブ)との合併により打開の道を開くこととなります。

昭和25年、九州カンツリー倶楽部唐津コースとして再出発し、福岡と馬場野間に直行バスが運行することとなりました。日本経済の好転や日本ゴルフ協会の復活などと相まって、唐津コースは賑わいを見せ、翌年には黒字転換を果たしたのです。

大平山コース4番グリーン上から3番グリーンを望む。

コースの美しさや環境の良さにひかれて、ゴルファーが唐津通いをしていた頃、福岡側では福岡都市圏に本格コース建設の動きが起こっており、九州カンツリー倶楽部古賀コースが2つに分裂。和白と古賀の2カ所にゴルフ場が開設されることになり、唐津コースは単独で新発足することを決定し、昭和28年、新しい「唐津ゴルフ倶楽部」が生まれました。

福岡からの集客を見込めなくなった当倶楽部では新会員を募るとともに、ビギナーの会員のためにプロの出張指導などを行い、ゴルフの面白さを定着させていきました。その甲斐があって、70名ほどの会員が一体となってゴルフ場を訪れるようになり、唐津ゴルフ倶楽部はビギナーの聖地とまで呼ばれるようになっていきました。

さらに、昭和30年代に入るとゴルフ大衆化時代が到来します。唐津でも唐津ゴルフ人会が組織され、第一次ゴルフブームの追い風にのり、ゴルフ場はいつも盛況を呈し、躍進への道を踏み出したのです。

平成3年に完成したクラブハウスの全景。右側のロビー棟にデザインされた四角い空間は、一面ガラス貼りの窓で、美しいコースや他のグループのプレーの様子を眺められるようになっています。

 

昭和40年代に入ると第2次ゴルフブームが訪れます。国内での競技数や賞金総額は、ともに膨れ上がり、選手層の充実拡大につながり、国際的な名選手を輩出したのもこの時代です。ゴルフ人口も年間2%の伸びを見せ、ゴルフは国民的スポーツとして定着し、隆盛を極めることとなりました。唐津ゴルフ倶楽部でも昭和37年に会員数は500名を突破、昭和41年には634名と着実に会員数を伸ばしていました。

経営が安定期を迎えたこともあり、倶楽部基金の増資や高取家に一部借用していたゴルフ場用地の買い取りなどが行われ、昭和45年、倶楽部使用の土地はすべて倶楽部資産となりました。この倶楽部の資産づくりは、その後の倶楽部運営に大きく貢献していくこととなります。

昭和51年には第2次増資に踏み切り、クラブ主要設備の改修や新設がスタート。倶楽部創立40周年にあたる昭和52年にはクラブハウスが改築されたことを記念して「クラブハウス改築記念ゴルフ大会」が開催され、これまでになかったほど盛大なコンペとなりました。ゴルフブームに乗り、年々増加していた入場者数は昭和48年に2万7776人を記録し、さらに昭和61年には最高の2万8224人を数えています。

常にコースコンディションを最高に保ち、サービスの質にこだわる唐津ゴルフ倶楽部の姿勢が認められた結果だといえるでしょう。

 

昭和60年に、市有地であった唐津市大平山の遊休地有効活用の要請を受け、9ホールコースに限界を感じていた唐津ゴルフ倶楽部の18ホール構想がスタートします。しかし、社団である倶楽部では対応が難しいため、昭和63年8月に倶楽部は発展的に解散し、翌日付けで昭和土地開発が経営を継承し、土地取得・造成工事が行われ、平成3年、大平山の9ホールが開場し、唐津ゴルフ倶楽部は18ホールのゴルフ場となったのです。

倶楽部ハウスは葉祥栄氏設計の斬新なもので、大きな窓から眺める端正なゴルフコースは、まさに一幅の絵のようです。自然の丘陵そのままの変化に富んだ馬場野の9ホールに比して、大平山の9ホールは平坦で素晴らしい景観を誇るコース。この両コースの極端な違いがゴルファーを飽きさせることなく楽しませてきたのです。平成11年にはアップダウンを考慮して馬場野コースに乗用カートが導入され、プレーヤーがよりプレーに集中できるようになっています。

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年の永い歴史を誇る「唐津ゴルフ倶楽部」はその時代により経営形態を変化させてきましたが、高取九郎、金子道雄の遺志は脈々と引き継がれ、今でもメンバーライフを第一に考える旧倶楽部の理念は生き続けています。(敬称略)